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合掌。雑記 想い

ある日の情景に、・・・・・心震えながら想う。

動物が好きな者がいる。
動物を嫌いな者もいる。
好きな者は嫌いな者に迷惑とならぬように、配慮と自覚があればいい。
嫌いな者は好きな者の意を酌み、寛大と認識があればいい。
両者のそれは、共に少しの我慢と思いやりがあれば、成立するのではないだろうか。

私は、動物大好きな者だ。

ただ、犬は嫌いだった。
小学生の頃、咬まれたトラウマで恐怖があった。
しかし、ドーベルマン・カイザーを迎えてから親ばかになった。
飼う動機は不純?だった。防犯の為に繋いでおけばいいと思った。しかし、二日で意識が変わった。
もはや単なる動物・ペットではなくなるのだ。[家族]という意識が芽生えるのだ。
いつも側に寄り添ってくれて、癒してくれるのだ。
決して裏切らず、楽しい時も辛い時も解ってくれるのだ。物言わぬが、表情で読み取れるようになるのだ。
守ってやりたい、と心から思えてくるのだ。
しかし、動物愛護なら何でもまかり通るとは、決して思わない。
溺愛してもそれは個人の勝手であって、ルールは存在する。
犬をノーリードで散歩させたり、遊ばせている者がいる。「訓練を受けて、賢いでしょ」と言わんばかりに。
確かに動物は賢い。
しかし、それはルール無視だ。そこに嫌いな者や恐怖を感じる者もいるのだ。
何らかのハプニングで、その賢さも失われる事が起きる。
飼い犬を放したら子供を襲ったり、悲惨にも殺してしまったり、他の犬を殺してしまったニュースを見る。
賢さは、自分だけが見れば良いではないか。人が自慢の元に過信しない事だ。
逆に、動物を虐待し殺してしまう奴も許されない。
言い分はあろうが、怒りの矛先が違うだろう。
姑息にも、人の目を逃れあるいは闇に乗じて、物言えぬ者をあやめるとは、絶対に許されない。
いずれも、愚かな人間によって引き起こされてしまっている。

死について。
人と動物の死は違うのだろうか。私は、尊厳という意味に於いて同じだと思っている。
[荼毘に付す]ことは、不浄なものなのか。縁起でもない事なのか。
ここで、ある日の情景となる、・・・。
ペット訪問火葬というのは、ペット火葬車でお伺いし、様々な場所・現地でペットの火葬をしている。
ご依頼主様のご指示だったり、私の判断だったりして、いわゆる公の場でする事が多い。
むろん、社会の迷惑とならないように、私の判断を優先して、細心の注意を払って行っている。希に迷惑をかけてしまう事があるのも、正直なところだが。
一部悪徳業者のおかげで、社会悪のイメージが起きるのも当然で、非常に残念な事なのだが。
そして、[迷惑の心配]を取り除いてやっていると、近寄って来て忌み嫌い怒る。
不浄とか縁起でもないとか。
そこで私は私の想いを語る。当然全ては解ってもらえないが、頭を下げて想いを語る。
一様に感じるのは、「私の周りでは迷惑で、他所なら良い」という考えだ。そう言う問題なのか。しかも、遠くからわざわざ近寄って来ての話だ。
行政プロジェクトでの話にも通ずるような、似たようなところがある。
わざわざならば、寛大な心であって欲しい。手前(私)勝手だろうか。

話は少しずれるが、
人も動物も、死に尊厳死・安楽死を認めて欲しいと思っている。
家族が心身とも苦痛ならば、あるいは延命による独りぼっちならば、私は生きながらえたくはない。
犬の安楽死を選んだ方から、泣きすがられた事がある。
周りから色々と言われる中での苦渋の決断だったそうです。自身の決断の善悪を問うていた。私は私の想いを述べたが、近未来の自分を見ているようで、ただただ祈る事しかできなかった。
カイザーの死に際して、もがき苦しむのならば、側に置いて安楽死させてやりたいと思っていた。リキエルが私達の居ない病院で、もがき苦しんで逝ったから。彼の鬼のような形相の死に顔が、脳裏に焼き付いていた。臨終に家族誰かが側に付けたら、安らかに逝くんじゃないだろうか。
その日カイザーは、最初黒い悪魔にもがき苦しんだ。
「がんばれ、がんばれ」と声かけしていた。
彼らは好きな人の言う事をよく聞く。好きな人の前では弱みを見せまいと頑張ってしまう。
「はっ」とした。私のせいで苦しんでいる。溢れる涙の中で謝罪し、覚悟を決めた。
「カイザーもういい。ありがとう。安らかに逝け。」の一言で、見事なまでに彼は、一つ深呼吸をして安らかに逝った。最期に私の方へ頭を持ち上げて、別れを言うように。

さて、命はいつか終える。
一度ガンジスの[荼毘に付す]ところを見てみたい。
人は薪で焼かれ、川に散骨するという。そして、人々はその川で淋浴するという。
彼らの信仰では、ガンジスは聖なる・母なる川なのだ。そのガンジスを赤く染める炎を見て、天に立ち上る煙と異臭に何を想うだろうか。
信仰の違い、文化の違いがある。
当然それを自らに当てはめるには、とても乱暴すぎる。しかし、それも認識があればいい。そういう現実も、信仰もあるのだ。

 
また死について。
人と動物(ペット)の[死]はどう違うのだろうか。
人は清浄で動物は不浄なのか。
私の信仰する仏陀は、それを同じと説く。
般若心経は、色即是空の観念で不垢不浄と説く。
私の出会った[坊主]に、「その死を一緒にするな」というのが何人か居た。
「不浄とされる動物を人間と同様に供養しない」と言うのだ。「遺骨をいつまでも手元に置くとたたりがある」とも言う。何故、供養するものにたたりがある。
先祖とか愛する動物(ペット)が何故、供養してくれている者にたたるのか。
いつか・・・の納骨は、人は墓に入れる。あるいは寺に納める。墓のない動物(ペット)はどうするのか。土に還してやりたい。土の無い者はどうすればよい。何故、人の墓に入れてやるのは駄目なのか。
今一度、[坊主]に問うてみたい。人と動物(ペット)の死はどう違うのか?
私には、修行を為した者の言葉とは思えない、不信が募るばかりだ。話を推し進めて行くと、先に[金]ありきで、信仰はそのあとというのが解ってくる。
修行僧によってその信仰に、衆生は救われる。
幼少の頃、托鉢に家々を回る修行僧の居る光景が日常にあった。母親はありがたいと両手を合わせ、決まって米を差し出した。先に信仰(読経)があって、あとに感謝の金品があった。
今、その光景は私の日常では皆無だ。
いつから彼らは、その信仰を捨てたのか。


最後に。
人を理解するのはたやすい事ではない。
平静を装って付き合える友人と呼べない者もいれば、喧嘩議論を徹夜でしても友人と呼べる者がいる。
思想と信仰があっても、それは他人に押し通すべきものではない。
だが、譲れないものがあるのも確かだ。それ故に難しいと言える。
動物を忌み嫌う人にも、どうかペット火葬の少しでもご理解頂きたい。
どうか、冷やかしと一方的な剣幕と嫌がらせは、つつしんで頂きたい。

最後に上記記事は、私のつぶやきであって、「ある日の情景に、心震えて想う」であることをご理解頂きたいと思います。

    色即是空
天地に生かされるわたしの命。
亡き者に知らされる大慈悲。
因と縁により存在するわたし。即ち、「色即是空」。
ならば、百花春に至って誰がためにか開く。
ならば、どう活かすわたしの命。



合掌。

ペット葬儀・ペット火葬
エターナルペットサービス 土佐野枝動
            
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枝動

shinさん、xml_xslさん、takemoviesさん
nice!をありがとうございました。
by 枝動 (2009-11-03 13:22) 

枝動

cloud9さん
nice!をありがとうございました。
by 枝動 (2009-11-03 23:15) 

袋田の住職

生きとし生けるすべてのものの成道を願ったのが釈尊の生き方でした。
けして、人間だけの幸せを願ったのではありません。
地球上の生物はすべて差別されるいわれのない仲間です。
などという、私も、以前は犬が苦手でした。
娘が犬を飼いだして、犬と遊ぶようになりましたが・・・
うちのチワワはわがままなので、ノーリード散歩させるのは無理です。
犬の散歩はマナーを守って欲しいですね。
本気で戦ったら人間より、犬の方が身体能力が高いですから!


by 袋田の住職 (2009-11-05 08:24) 

枝動

袋田の住職さん

ありがとうございます。
龍泰院のホームページも、時々拝見させて頂いております。
解りやすく説いて下さるので、助かります。
ブログもそうですが、お伺いすると幼少の頃を思い出し、そこに帰れる気分です。
「信じて疑わず」だったあの頃が、人生で一番、素直で誠実だったかも知れません。年を重ねて、一つ一つ大事なものを忘れていくようです。
ココアちゃんみたいな小型犬でしたら、ノーリードでも、・・・いややっぱりリード散歩がマナーですね。これぐらい良いだろうの気持ちが、だめですもんね。

by 枝動 (2009-11-05 22:22) 

枝動

はっこうさん
nice!をありがとうございました。
by 枝動 (2009-11-05 22:43) 

枝動

官兵衛さん
nice!をありがとうございました。
by 枝動 (2009-11-10 14:41) 

albireo

何時も、お越しいただきながら、こちらからはなかなかお伺い出来ず、申し訳ありません。

例えば、ブータンなどに伝わる仏教では、人は死後、家畜に生まれ変わったり、虫に生まれ変わったりすることもあると、そんな風に考えられていると言います。
それなのに、日本の僧侶が差別的な考え方をするのは、確かに納得の行かないことだと思います。

ところで、僕には一つだけ、ペットを飼う人たち対してに、納得の行かないことがあります。
それは、可愛がっていたペットが死んだ後に、さしたる間を置くこともなく、次のペットを飼える人が多いことです。
僕も昔、もう30年以上も前のことですが、一頭の雑種の犬を飼っていました。その犬が死んだ後、今になっても、僕は別の犬を飼う気にはなれません。それは、僕の思い方が、少しばかり変わっているということかも知れませんが…。
でも、その犬の死は、僕が人の命も動物の命も、その価値に大きな違いはないのではないかと、そんな風に思い始める、きっかけではありました。
by albireo (2009-11-13 23:41) 

枝動

albireoさん

いつもalbireoさんのブログで、植物や動物に癒されております。

色々な国の宗教、特に葬儀を見てみたいです。まさに臨終の時、人々はどうされどうするのか。私の中では、日本の仏教でも特に人と動物の死について、学び考えてみたいところです。
記事に書いた「坊主」は、お二人がかなり有名なお寺でした。
日本の仏教はどう伝わり、その信仰はどう変わっていったのか、学ぶ必要があるようです。

ペットの死後次のペットを、というのは解らんでもないです。
その子の代わりはないけれど、寂しさ故、そして何より動物が好きなのでしょう。
私も今年に入って、たてつづけにまた辛い思いをしましたが、一頭だけなら次飼っていると思います。さすがに、すぐにと言う訳にはゆきませんが。
幸い多頭飼いで、まだ三匹健在ですので、助かっているようです。

ほんとに人も動物も、その命の尊さに違いはないですよね。

by 枝動 (2009-11-14 02:32) 

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